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人を聴く
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人の本当の出会いは人をお世話するのではなく、在りのまま 人を受け入れ、その話をそのまま聴くことにあります。
イエスがマルタとマリアの家を訪ねた時、マルタは世話をすることに忙しくて怒こっていました。なぜなら妹マリアは座って、ただ聞いてるだけの楽な役をしていると思っていたからです。しかしそうではななったのです。一番 難しい ゛人のもてなし方゛は、その人の話を聞くことです。世話をするのは 時間と努力が必要ですが、その人が出ると なに事も無かった様に元の生活に戻ります。 しかし 人の話を聞いた後は何かが変わっています、元の自分では在りません。
イエスを聞くと自分がかわります。イエスは ″自分を受け入れ、気持ちを理解してもらうために聴いてもらいたい人″の様な姿で私たちのところに近づきます。
これは 私達自身の家にも起こることです。もうお互いに理解しがたい気がする 子供、あるいは夫、妻であっても時々耳を貸してもらいたいことがあります。例えば 親元から離れて学校に行っている子供が帰ってくるのを楽しみにしているけれど...。 帰った子供は「まねかれざる客」。子供は変わった。子供の世話は出来るけれど、耳を貸すよりも口を満たす方が易しいからです。
聴くのは厄介です。
宗教には信心深さを表現するいろいろなものがあります。ミサに預かったり、祈祷を唱えたり、信心業を行ったり、聖堂に花を飾ったり...。 これらの事は良いことですが、「まねかれざる客」の神様に耳を傾ける代わりにしないように気をつけなければなりません。 私たちが マルタの様に 御馳走を準備して、大切なお客様として扱うのは 本当に神様を無視する事です。
私たちはドミニコ会員として説教者修道会に属しています。゛その人の人生を変えかねない゛様な言葉を掛ける勇気を持っていますか。
聖ドミニコの次期総長、サクソンのヨーダンの話を聞かせないように、母親たちは息子たちを家に閉じ込めました。
私は二週間前に元社会主義国家の東ドイツのライプチヒプに行きました。下町に良い説教と祈りの場の教会がありました。これはドミニコ会の教会として知られていました。その教会での説教の影響力の大きかった為、市長はここを爆破しました。
そこは固まったシステムに取って 厄介ものだったから。
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