聖書の世界

 

聖書の世界と出会うためには、我々の歩み行く方向は逆なのである。自らの手でに握え、解ろうとすることを断念することから出発しなければならない。そして、すべての我の匂いを去る方向へ歩み行かねばならない。何故なら、聖書の伝承の示しているものは、そういう我の匂いを去った人々に、彼岸から与えられた、神の恵みのながめなのだからである。

例えば、福音書は、イエズス キリストをめぐる様々の出来事の、人間的体験や、知識を、如何に纏めようかと、書かれたものではなく、福音史家の一人一人、それぞれに、その首の根を神の手に掴まれて、これでもか、これでもか、と見せられた、一つのながめ、の告白なのだからである。まことの神的ながめ、というものが、どういうものかを、自らに生きた者でなければ、想像することは出来ない。新興宗教的幻想のながめとはもとより無縁である。自らの手中の事の如く語り得る境涯でもない。神のちえの光りと神の息吹きとの境涯である。

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