地下流の出会い

  高森草庵について何ごとかを書くというのは恐ろしいことである。書いているその人自身があからさまにされてしまうから。高森草庵というのは、そういうところである。哀しみをもつ人はその哀しみが、邪なものを持つ人はその邪まがあからさまになるところ。特に、底知れない沈黙がこもる御聖堂では、すべて、隠してはおけない。あからさまな姿が、神様の光と闇の中に抱き取られ、包まれてゆく。高森草庵は、そういうところである。

押田成人神父(ドミニコ会修道司祭)が、約四〇年前、修道院を出て無行の行者として、無一物の生活を始めた時、時々の療養生活の中から、人々のまどいが生まれ、その生活が始まった。「ポケツトに手をつっこんで、口笛を吹きながら、自我の匂いから逃げ去ることだけをしてきた」と押田神父は語る。“共同体を作ろう”とか、“新しい修道生活を始めよう”とかいう人間的な作為で始まったのではない。“神様の手”があからさまに働くためには人間の側の自我が消えねばならない、と、その時々の神様の手とだけ対話をしながら、高森草庵の歩みは歩まれてきた。

訪れた人がまず驚くのは、萱葺き屋根の日本家屋、田んぼや林が点在して溶け合ったその風景の美しさだろう。“身に沁みた仕事をしなさい”と語る押田神父と共に、その時々、集った人たちが働いてきた田んぼの美しさはたとえようもない。

皆で、古材を使って建てたという母屋は、誰が来ても“なつかしい”と感じる不思議な空問であり、交わりの場である。そして、丘に立つ木の十字果の裏の林に囲まれたお茶室のような 御聖堂 は、底知れない沈黙と清洌な光と慈愛のこもる高森草庵の中心である。葦の入ったガラス戸、火焚きのため、黒光りしたベニヤの板壁、わらで編んだ茣蓙、シスターの織ったボロ機織り、木の板一枚の祭壇、萩焼きのカリス。内側からの光で輝く美しさがすぺて含みあって調和している。その空間では、嘘はつけない。圧倒される精神の充満が重たく、また、こわばったからだがほどけてゆく。

そして、訪れた人が次に驚くのは、その貧しさかもしれない。エアコンも、テレビも、湯沸し器も水洗トイレもない。母屋では、冬は薪ストーブだけ、 行火 ( あんか ) 、湯たんぼを抱えて、寝るときは暖を取る。昭和三〇年代初期の生活だろうか。だが、だからこそ、自然をまじかに感じる。自分が自然の一部であることを肌で感じ、しばらく時を過ごすと、存在に中心感覚が生まれてくるのがわかる。常住者は、おそろしく忙しく立ち働いているが、苛立つようなざわざわしたものをまったく感じさせない。呼吸が深く落ち着いている。だからこそおのずと、こちらの内側もしずまってくるのである。深い調和からひと時も離れない、一挙手一投足が現前している。

高森の田んぼでとれたお米はおいしい。“豊年早稲”という、今では、農業試験場にしか見られない寒さに強い品種をずっと守ってきた。千mを越える高地での稲作は、苦労が多い。小さな稲が寒さにやられないよう育て、祈りながらのお田植、毎目水加減を見ながら、暑さの中の草取り、虫取り、そして刈り入れ、脱穀、奉献。

間の思い通りにはならない天候、自然の営みのなかで、稲の成長を見守り、対話し、工夫しながらこちら側も耕されてゆく。邪まなもの、いやなものが農作業をする中で、しぜんに落ちてゆく。田んぼが、畑が、吸い取ってくれるのである。高森の田んぼはそんな力がある。

高森草庵の朝タの祈りは、一時間ほど、押田神父にならい、坐禅の形で坐ってから、聖書朗読、主の祈り、詩篇朗読などがある。坐禅をするうちに、御聖堂の沈黙に包まれ、それがからだに沁み込み、いつのまにか透き通ってあからさまにされている。そして、皆が一つになった息で、詩篇を唱える。息を合わせて、一緒に息を吐きながら一息でゆっくりと唱えるのである。そこでは、“私”は消えて、ことばが新たに産まれ、また消えてゆく。同時に、万物の呼吸がそこにたち現れ、そのうめきも痛みも声なき声となって現れては消えてゆく。“祈るとはいきにのること”と押田神父は語る。そのような祈りがそこにはある。

御聖堂の裏には 慰霊林 があり、皆で建てた木の慰霊碑が立っている。

「限りなき涙の海に消えずたたずむ」という詩碑を真中に、太平洋戦争の犠牲者、日本の朝鮮植民地支配の犠牲者、日中戦争・特に南京大虐殺の犠牲者、太平洋諸島・フィリツピンの戦争犠牲者の慰霊碑がある。日本の戦争責任を、忘れ去ったように語らない日本の為政者達とは逆に、日本の隠れた良心のように、アジアの戦争の犠牲者達を悼む祈りが、ここにある。

一九八一年には、世界の精神指導者が集まり、「九月会議」が開かれた。キリスト教、仏教、ヒンズド教、イスラム教、ネイテイヴ・アメリカン等の人々が参加。高森草庵は、あらゆる宗教の人々、宗教を超えた人々もおとづれる場所になっている。多くの人々の出会いやドラマが生まれ、また各々の人の決定的なところで出会いが起こっている。一人一人の高森草庵がある

しかし、高森草庵を“霊性交流の場”とか、“仏教とキリスト教の統合”だとか、“日本的キリスト教の土着化した場”だとか、定義づけるのは違っている。かえっておかしなことにしてしまう。“必要な人の必要に応える”というまごころ、“赤貧洗うがごとし”の輝ける貧しさの恵み、労苦も喜びも多い農作業、その生活の根底にある深みと一つになった祈り。高森草庵は、決して名づけることはできない。“これはキリスト教なのか?”と問う人は、かえって問われるだろう“あなたのいうキリスト教とは何ですか?”と。キリストの、そして、日本の隠れた人々の、暖かいまごころがそこにはある。草庵の裏手にある泉(小泉)のように、日本の地下流とキリスト教の地下流が噴き出してあふれ流れるところ、大いなるいのちの流れのひとつの確かな支流、それが高森である。世界各地に「高森」はまた芽を吹いている。

この三〇年、すべてを合理化し、組織化し、計画し管理しようとするシステムがすみずみまで行き渡った日本の中で、ボロボロの貧しさのままで開かれた祈りの生活を続けていることは、まさに奇跡である。祈りとはいのちがけの生活から生まれ、霊性もそこから生まれること、高森草庵はその具体的な証言である。

(I・CH)

 

 
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