福音の人聖ドミニコの生涯とその人となり

 

 自己の全存在を捧げ、愛をもってキリストに従うためには、イエスの意図することを深く知り、それに生きることが要求される。そのために啓示された真理を、伝承、聖書、教導職等の導きに基づきながら真摯な祈りをもって探求していくものである。

 同様に、創立者ドミニコの精神と霊性を探求するためには、彼の歩んだ道のりをたどり、その精神をくみ取っていかなければならない。この項では彼の伝記、創立当初の初期の文献をもとに彼の生涯をみつめ、会の霊性を明らかにしていきたいと考えている。

    1.      カレルエガ

聖ドミニコは、スペインのブルゴス県のカレルエガにフェリックス・デ・グスマンを父に福者ホアナ・デ・アサを母として1170年頃に誕生した。彼に関して初期の伝記作者は、ドミニコの人生を象徴していると思われる二つのエピソードを書き記している。彼の母はドミニコが生まれる前にある象徴的な夢を見た。それは、胎内の子供が燃える松明を口にくわえた白黒まだらな子犬の形をしていたというもので、彼が胎外に出るとその火でもって世界を燃やすかのようであったという。 また彼を洗礼盤から取り出した婦人によれば、幼児聖ドミニコの額に星があり、その光は全世界をあかるくしているように思え、代母である彼女は、将来彼が人々の光となると理解したということである。

    2.     パレンシア  

 ドミニコが6歳になるとグミエル・デ・イサンの首席司祭であった叔父のもとに送られ教育を受け(一般学業の初歩をおさめる)、幼少の時から聖なる芳香で満たされていたという。勉学の初歩と共に、教会の人としての道を学んでいくことになる。

 14歳になると、ドミニコは叔父の教会を離れてさらに上の学校に通うためパレンシアに行く。そこでは、伝統的自由七学科を6年間くらい学び、後には神学と聖書の養成を4年間受けた。彼は非凡な記憶力に恵まれていたが、神の言葉を自分の中に保ったのは、単に記憶にとどめることによってではなく、行いによってもそれを保ったのである。

 ドミニコは、他者に対して自分を閉じていたのではない。一人で祈るとき、彼は祈りの中で他者と共にあった。このことがはっきりと示されるのは、パレンシアに滞在中、厳しい飢饉でスペイン全土が荒廃した時のことである。彼は「人が飢えて死んでいくとき死んだ皮の上で勉強していることはできない」と言って非常に高価だった本を売り、代金を貧しいひとたちのために使った。このように苦しんでいる人と苦しみ、英雄的な愛徳に励んだのである。

 貧者を救うために自分の書籍や家具・衣服などを売ることで、本も家具もなくなったパレンシアの部屋で、ドミニコは自分の生命の意味を発見する。−飢えた人々に食物を与え自分自身までも与えること−しかしどういう食物に人々が飢えているかを理解するまでには、もう少し時を要する。

 ドミニコは自分の計画を長い時間をかけて熟させ、着実に実現させていくというタイプだった。何かあるできごとで衝撃をうけると、まずショックを心で受け止め、心中に変化が起こるのであったと言われている。

 

3.     オスマ    

 ドミニコの聖性の名声は広がった。オスマの司教(Martín Bazán)は1196年または1197年頃にドミニコを司教参事会員にした。ここで彼は約一世紀来、オスマの司教、より広くは全カスティリア地方の司教たちが取り組んでいる大事業に、自分の立場を通して協力していくことになる。25歳・司教参事会員として誓願を宣立して後、間もなく司祭となる。司祭となる最低年齢である。

 1199818日の文書によると、司教座聖堂の典礼生活の責任者になっている。彼の聖性は、驚くほど高いものであったから120113日に、参事会員たちは彼を称賛し、ドミニコの意志に反してではあったが司教参事会員の副院長に選出した。オスマの司教参事会は、聖アウグスチヌスの戒律を採用していた。当初は初代教会に帰り、使徒たちの生活に倣おうという気運のもとに教会の改革がなされていた。

 ドミニコは、カシアヌスの『砂漠の師父たちの説教集』を愛読し、深い内的生活を深めた。それと同時に彼の生活は、不断の祈り、優れた愛徳、聖務日課の詠唱といった参事会員本来の役目に熱心に励んだ。

 

4.    誤謬の世界において

 カスティリア王アルフォンソ8世は、司教ディエゴ(Diego de Acebo)に北ヨーロッパに妃(デンマークの貴族の姫君のひとり)を迎えるための使者となるように依頼した。ディエゴは司教参事会員の副院長ドミニコを同行使者として選んだ。1204年の外交使節としての旅行は彼の人生における大きな変革をもたらすシンボリックな出来事であった。司教参事会員として、日々聖書に親しみ、典礼生活にいそしみ、祈りと勉学に余念のなかったドミニコの観想的生活を突然変えた。この生活の溢れからくる活動的生活において彼の使命を示していくことになる。

 南フランスのツールーズには、カタリ派の異端者がたくさんいた。旅行一日目に夜を徹して語りあかした宿主もその異端を信奉していた。ドミニコの英知に満ちた力強い話をもって、その宿の主人を回心させた。これは彼が最初に回心させた人である。おそらくこの一夜は、その生涯に大きな意味を持たせたことに疑いの余地はない。三年後にドミニコは自分のすべてをかけて対カタリ派の活動をすることになる。十数年後には、このツールーズに、ドミニコ会の最初の礎を置く。

 その後、1205年には、再び使節としてオスマ司教に同行し、二回目のデンマークへの旅に出た。この時道すがら異端が蔓延していることに心を痛めることになる。

 1206年にローマを訪れる。ディエゴはオスマの司教座を退いて、北方の異民族のところに宣教に行く許可をインノケンティウスV世教皇に願うが、これは許されなかった。そのためドミニコが持っていたクマーノ人・異端者・キリストを知らない人々・諸国民に福音を告げたいとの願いは許可されず、ディエゴと共にスペインに帰ることになる。その後、教皇使節団およびシトー会の大修道院長団に会う。「貧しいキリストの福音を与えるためには不似合いであるから大仰な経費、馬、衣服、道具の身分不相応な華美なもの全てを放棄し、真実なる福音の貧しさを受け入れること、および議論や言葉だけでなく、行動し模範を示すことによってキリストの信仰を広めること。こうすれば、異端者が徳と慈悲の偽りの像で惑わしていた霊魂を、霊性と信仰の正しい手本を示すことにより、真実の信仰へと呼び戻すことができるであろう」とモンペリエでディエゴと共にいた時に識別したこと、つまり教会から派遣されてキリストが弟子たちを派遣なさった時のように、慎ましい仕方で説教することをドミニコは決して捨てなかった。 

 

5.  観想会の修道院とその宣教活動

 1206年には、カタリ派の異端から改宗した貴族の娘たち(高貴な婦人たち)のためにプルイユに修道院を建設した。

 同年10月には、ファンジョーに居を定めた。そこはカタリ派の共同体があり、また完全者と呼ばれ教皇に従うことなく彼らの仕方で完徳を目指していた人々が住んでいた。ツールーズの司教が寄付したプルイユの荒れたサンタ・マリア教会をセンター修道院として譲り受ける代わりに、ドミニコはファンジョーの教会の主任司祭となることを承諾した。カタリ派の中心地であるこの町で、困難な司牧活動にも携わることになる。数ヶ月後には、これがモデルになってあちこちに説教センターがつくられていく。

 1207417日教区の権利を譲りうける。そしてファンジョーは霊的な慰めの地となる。ここを拠点として8年間アルビ派と戦うことになる。

 1207年には、モンレアルでの宣教に従事する。その年の1230日には、オスマのディエゴ司教が帰天する。しかし、聖なる説教をドミニコは一人になっても続けた。

 1212年には、クセランス、ベッシェルス及びコメンジェの司教の位を受けることを拒絶する。彼は位階など持たず、単なる説教者に過ぎない自由を大切にしていたのである。彼の使命は説教を続けることであった。

(6)説教者兄弟会としての活動の始まり

 1215年ツールーズに会の修道院を設立し、当地のフルク司教によりドミニコ会(説教者兄弟会)は、公式に位置づけられる。その時点でドミニコ会共同体に永続的に説教の権利が与えられた。これによって、彼の説教活動はかつては南フランスの異端者を根絶することを目的としていたが、この時からカトリックである人たちも対象に、教会の教えを説いていくことになる。これは、いわば教会のシステムを変えることであった。

 彼の名声は広がり、多くの人々が集まり、大きな家を必要とする。同年4月にツールーズの裕福な市民二人が、ドミニコの手の中に誓願をたてた。彼らのうちのひとり、ペトロ・セイラは、ナルボンヌ城に接する自分の家をドミニコとその兄弟たちに提供した。ここで、通称ドミニコ会として呼ばれる説教者兄弟会は生まれた。そこで修道者として生きる基盤を養うことになる。ドミニコの創立者としての考えが固まり、修道生活の新しい理念が確立していくのである。裕福な修道者は、異端者に何もできないのであるから、何も持たずキリストのために貧しく生きるべきだというものである。

同じく1215年にはローマに向かい、修道会の教皇認可を求めた。第四ラテラノ公会議の議決は新しく修道団体を設立することを固く禁じた。今後修道院を設立しようと思うものは、既存の承認されている戒律の中から選ぶことが要求され、ドミニコは聖アウグスチヌスの戒律を選んだ。会の慣習法は、プレモントレ会のものを基盤とし、それに自分たちの独特のものを加えた。中でもドミニコがとった最も独創的な方法は、観想による実りを、説教をとおしての使徒職中心に展開していくために、幾世紀にもわたる伝統を破って修道院を都市に、しかも大学都市の真只中に建てた。生活面では、托鉢、免除という方式があげられる。

7.  世界全体に向けての歩み

12161222日、教皇ホノリウス三世はこの修道会を認可した。しかし、ドミニコは、1217815日、彼の保護のものである16名の修道士をスペインへ4人、パリヘ7人の会員の派遣を計画する。これが、ドミニコ会のペンテコステである。この破壊的な冒険に対してフルク司教などが反対したが、ドミニコは「種子を蒔けば実を結ぶが、重ねておくと腐る」と言って、この新たな一歩を踏み出したのである。それは本来念願であった「すべての魂の救い」という普遍的、使徒的活動の一歩であった。兄弟たちを大学に通わせた。それは、間接的に意図することなく新しい知的傾向にも答えることになるのである。また大学とドミニコ会の結びつきは、新たな精神的世界に飛翔し、言葉を語ることによって、当時の哲学や法学、特にアリストテレスとの出会いを通し、またアラビア文化の吸収を媒介に普遍的場と内的充溢を得るために絶対に必要なものであった。このため1218年には、修道士を法学専攻の大学都市であるボローニヤへ派遣する。

 翌年ドミニコは全く托鉢によって生きることを認める勅書を得る。それによってそれまでは説教行脚の時にのみとっていた托鉢の生き方を、修道院にも及ぼすことができるようになった。ローマの諸修道院に散在する修道女をサン・シスト修道院に集め、兄弟のためには現在修道会総長のいるサンタ・サビーナを手に入れる。

 1220年には、ドミニコ会第一回総会がボローニヤにおいて開かれ、ドミニコがこれに列席する。ここで会憲も法的体裁を整え整備されていく。ドミニコは、会議を支配せず謙遜に一人の兄弟として、会憲や将来の方針の決定を全会員の総意にまかせた。ドミニコ会の最高決議機関は、君主制と結合したが極めて民主的な形態をとったことは、中世の真只中にあって、霊性の自由さと預言的資質が満ち溢れていることがわかる。

 さらに特筆すべきこととしては、その総会議で免除の可能性を一般的な原則として宣言したことである。これは人間の弱さに同情しての免除ではなく、時に諸要素間に葛藤を招く複雑な生活様式の中で、より効果的に目的を達成させるための有機的免除である。

具体的には「上長者は、それが適当であると認める場合、特に、勉学、説教、そして人々の益の妨げと見えるすべてのことについて、免除を与える権能を持つ。何故なら、我々の会は、はじめから説教と人々の救いのために建てられたものであり、我々の勉学も、本来熱烈に、力の限り、我々を隣人の霊魂に益あるものとすることを目指さなければならないことを知るべきである」というものである。そしてドミニコの息子たちは世界に広がっていき福音を宣べ伝えた。

1221年二回目の総会議が終わったとき、創立者としてのドミニコの仕事も終わった。会は完成したのである。(現在に至るまで、会は、このボローニヤの総会が決定した制度に従って運営されている)ドミニコは、安心して説教の役務に専念することができた。

 ドミニコは、ベニスに枢機卿ウゴリーノ、その後の教皇グレゴリウス九世を訪ね、ボローニヤに帰った。彼は、その時すでに患っており、86日、ボローニヤのサン・ニコラス修道院で死去し葬られた。その後は、彼が臨終でなした至福なる約束が成就されることになる。


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